どんだけ教師が偉いんだ!!教師なんて「タダの人」という話。
久々のブログ更新となりました。夏休みが明けて授業が再開されると、やはり忙しくなるものですね。
学校に生徒が集まれば、それは問題が起きる。し、問題が目に見えるようになる。こちら側から見て、認識”してしまった”ら指導してしかるべき。
本来こんなスタンスではいけないのかもしれませんが、
「おいおい、もっと上手にやれ!こっちにばれないようにしてくれよ…」
と思うこともしばしばです。大したことない悪さなら、こんな感覚を持つ先生もいらっしゃいませんか?汗
例えば、完全下校で「自宅学習」と決まっているある日の午後です。
自宅学習だ、と言っているのに「先生、習い事があるのですが家を出たらダメですか?」という質問や「図書館で友達と勉強したらダメですか?」など。そんなこと、こっちに聞かずにそれぞれで判断してやってほしい!なんて思ったりします。
ルールは守ってしかるべき。それは正論ですが、ガッチガチにルールで縛って、いい意味での「アソビ」を持たない人間を育てるのも、なんだか違うかなぁと思うんです。そうなってしまったら、なんだか人生つまらないんじゃない?と思います。
ルールを敷くということは、その組織でどうしても守ってほしい、
「要は、〇〇ならいいんでしょ?」
の「要」があるわけで、キモを抑えれば、ルールから多少はみ出てもOK、ということが、社会に出ると良くありませんか?こういうヒトを「要領がいい」とか「仕事上手」と言うと思うんです。
・・・私のような教師を見て、きっと子どもたちは少しずつ「暗黙の了解」といったことも覚えていくんでしょうね(苦笑)。
さて、表題の件。教師なんて「タダの人」。これは、私が小さいころから親によく言われていたセリフです。今でもそうだと思います。教師なんて所詮タダの人です。偉いのは私ではなく、教師という『立場』です。
生徒に、絶対的な間違い(誰かを傷つける、嘘をつく、いじめる、ものを盗むなど)を指導する場合でも同じ。偉そうにするのではなく、淡々と「何がいけないのか」をわかるように説諭し、反省を促す。それがキモであるのに、やたら偉そうに上から押さえつける教師もいます。
子どもは敏感です。理屈では「自分がやったことはいけない」とわかっていても、「あのセンコー、偉そうでムカツク」なんて思わせたら、素直に反省する心も失せてしまいます。だって、子どもですから。大人である教師は、この辺をよく理解し許容し、子どもたちの目線までしっかり降りて指導をすべきです。
私たち教師は、生徒に指導に当たる時にある程度の”方向性”は持っています。最終的に、この問題はこういう方向に持っていけるといいな、というざくっとしたものです。生徒同士のトラブルの場合でも、双方から個別に事情を聞いて、事実のすり合わせと、原因がどこにあるのかをきちんと整理して、お互いの言い分を伝え合う。そして生徒たちは(ある程度)スッキリしてコトを終える。
ところが、お互いが腹を割って話すことが大事な時に、経験の豊富な先生が先走ることがあります(私としては非常に腹立たしいです)。あたかも生徒Aが悪かったんじゃないか?と諭すように。それでは、生徒Aは腹を割りにくくなるし、自分の思いを吐露する前に潰されてしまう。せっかくの場が台無しになります。誰も教師の過去の自慢話を聞きたいのではないのです。お前がどんだけ偉いんだ、と。
生徒指導は、こちらの正義を上から押し付ける場ではありません。人間なら、誰でも吐き出したら少し楽になる、というものがあるはずです。吐き出してもらって、まずはすっきりしてもらう。そうして冷静になった後に、こちらからのアドバイスを聞いてもらい、自分で「こうすればよかったんだ」と考えられるようになれば、それが自立への、更生への第一歩。そんな風に思っています。
少し話がそれましたが、教師は偉くないです。もちろん、人格者と呼ばれる尊敬すべき諸先輩方もいらっしゃいます。ただし、それは「人柄」がスバラシイのであって、きっと教師でなくても尊敬すべき方でしょうし、お偉い方なのだと思います。教師だからといって、初めから偉そうにして”教師ぶってる”人など論外です。いちばん一緒に働きたくないし、私はそうなりたくない。そんなことを思う夜なのでした。