認めても、それが正しいとは思わない。”100の正義”と”1の正義”のすり合わせ方。
教員をやっていると、生徒に問題が起きた時に教員同士のぶつかりが良く起こります。
何を指導するか、どういう方向に話を持っていくか、どこまでを指導し、どこまでを我慢して見逃すのか、保護者への連絡はどうするか、この子も同様の指導を入れるか、指導の重さをAくんとBくんで変えるかどうか、被害児童の子に過失や原因はないか、あるならばどのような指導をするか、などなど…
どんな仕事でもそうですが、人、ことさら赤の他人の、しかも子どもを相手にする以上は、事細かに事実を整理して、指導の言葉ひとつひとつに真心を込めて行わないと、後々「しこり」が残り、教員との関係が悪化することもあります。
それだけならまだよいのですが、最終的には保護者が一生かけて育てていく子どもなのに、(我々教員が介在したことで)親と子の関係がこじれるようなことは絶対あってはならない。そんなことを考えながら指導にあたります。
以前も記事に上げましたが、各家庭に正義があり、善悪があるため、どこまで”入っていくか”という点についても、やはり教員同士で議論になるポイントです。
challenge-teacher.hatenablog.com
では、さまざまな正義がある中で、私たち教員が取るべきスタンスはどのような形がもっともよいのでしょうか?
私の結論は、「〇〇くんの意見も正しいと思うよ。ただ、先生は××だと思うよ」という意見提示を行う、という方法です。
学校として、というよりいち教師として、こうだ!という風に善悪を決めつけるのはなかなかに難しいです。
ヒトを殺してはいけない、といった、あまりに極端な話は良いとして、たとえば
「内申は遊びたいしワルイことしたいけど、中学校ではおとなしく良い子にしてよーっと。だって、中学校の成績って、高校入試の内申に関わるでしょ?先生に目をつけられたら損じゃん!」
みたいな生徒がいたとします。この子の発想を、100%悪、正しくない、と決めつけることはできるでしょうか?
ハッキリ言って、感じのいいタイプではないことはわかると思うんです。ですけど、彼の言うことも一理あるといえば、一理あるんです。
中学生にとって、学校生活は思春期において時間的にも経験的にも大きな要素を占めています。ただし、義務教育だからと言って、そこでの生活を何よりも絶対的に優先するもの、と決められているわけではありません。例えば、プールや書道、サッカーのクラブチームなどの習い事に一生懸命であれば、学校生活は「内申点のためのもの」と割り切る方法も、あながち否定できたものではないのです。…胸糞悪いんですよ?もちろん。苦笑。
でも、そういう風にしなさい、と親が指導している場合もありますし、何かひとつでも他人より優れていて、その得意技能ひとつでご飯を食べていこう、と考えているならば、それはそれなのです。
だからこそ、「こうしなさい」とはいえない。「先生はこうだと思うよ?」が精いっぱいなのです。先生はこう、という先生からの提示は絶対必要だと考えます。色々な正義があるからといって、すべて認める。だからといって、教員側から生徒に対して方向性の提示がない、というのはいささか苦しいと思います。
何か問題行動が起きて指導する上では、こちらがどう考えているか、ということを生徒に説明するかどうかは、生徒に考えさせるという意味でも大きな違いがあると思うんです。
…という、本日の私がふと考えたことでございました。正解がないだけに、生徒指導って難しいなぁと思います。