精神的に追い込まれた新社会人時代。私がサラリーマンから教師に転職するまで(その1)
私の勤務校では、冬休み前の三者面談が昨日で終わったところです。夏休み以降の生徒の学校でのようすを中心にお話をさせていただきました。
大変悲しいことに、特に悪いことをしていない生徒のほうが面談時間は短くなります。良いこともしていない、いわゆる人畜無害タイプの生徒。これは面談の時に何をお話ししたらよいのか、非常に迷います。
こういう生徒を見つけるたびに、日頃の生徒観察がきちんとできていないんだなぁ、と申し訳ない気持ちになります。反省しなければいけませんね。
年末ということもあって、面談を迎える前に生徒達と1年間の振り返りを行ったりもしました。私は4年目の教員シーズンを迎えて、やはり卒業生を出したことでずいぶんココロの余裕が生まれたように感じます。3年前は転職したてということもあって、こうはいきませんでしたから。
思い返すと、よく民間企業、しかも設立数年のベンチャー企業から教員に転職したよなぁ、と過去の自分を褒めてしまいます。
ブログへ流入しているユーザーの検索ワードの大半が「転職」がらみのキーワードであることを考えると、サラリーマンから教師への転職を検討されている方が多と思われます。
今日は、改めて自分がどのようにして転職することとなったのかを、自分自身のためにも振り返ってみたいと思います。
そもそも、私が企業に就職したのは今からおよそ6年半前の2009年4月でした。
その企業は、入社当時は設立2年目という超ベンチャー企業。東証一部上場企業と、ベンチャー企業の資本が半々で入っていた会社で、完全なゼロからの立ち上げ、ということでもなかったので、早々に倒産、というリスクもなかろう、という安易な考えもあり入社を決めました。
会社は中小企業をターゲットとした自社サービスと、広告代理事業を収益の柱とするスタイル。私は広告代理事業の営業マンとしてキャリアをスタートすることとなります。
もともと広告という世界にはさほど興味がなかったこともあり、また、営業という仕事にも適性があったといえばそうでもない性格でしたので、入社して1か月目から相当苦しかったです。
1日に新規架電を何十本もかけ、アポイントをとり営業をかける毎日。会社の名前は一切通用しない中、フックとなる商品の話をうまく絡めて「声」ひとつで「3分以内」に相手の信頼を得る。サラリーマンで営業職に配属された人なら経験のある方も少なくないかと思いますが、会社の看板がないだけに相当に難しかったです。
もちろん営業数字(目標利益)の達成など夢のまた夢。おかげで4月にいきなり「お前、来月の給料、ないかもしれんぞ」と脅されました。今ではいい思い出ですが、当時は本気で焦りました。泣。
私を指導してくれていた上司はバリバリの営業マンで、でもガツガツしていなくて、どちらかというとお客様から可愛がられるタイプの、甘え上手な営業マンでした。毎週末に合コンを何件もハシゴして、最後のアポイントで必ず女の子をお持ち帰りする。これを土日に行う、バイタリティ溢れる上司でした。笑。
そんな人でも、私のことを本気で育てようとしてくれているのはひしひしと伝わってきました。本当に厳しいし、ジリジリと精神的に追い詰める指導をされましたが、仕事のイロハをこの人に教わったのは、今の教員人生でもたくさん役立つことがあります。感謝しています。
そんな日々を送ること半年。最初の危機が訪れます。資本を出してくれていた上場企業の社長と、うちの社長がちょっとしたケンカをし、資本と出向させていた上場企業の社員をすべて引き上げる、と言い出したのです。
これにより、うちの会社は一気に倒産のピンチに。キャッシュフローが本当にギリッギリの状態まで追い込まれました。オフィスも、出資元の上場企業のフロアを間借りしていたのですが、そこも追い出され、大きめの2階建ての一戸建てに事務所を移すこととなります。
この頃は、本当に倒産するんじゃないかと何度も思いました。私自身も仕事が相当に辛く、取引先の方に私が仕事のグチをしていたら、その話がそのままうちの上司に伝わっていて、上司からガッツリ詰められたことをよく覚えています。あの時は本当に血の気が引きました。苦笑。
今思えば、こういう死にそうなくらいに精神的に追い詰められた経験というのは、今に生きていると感じます。多少のクレーマーの保護者など屁でもありません。笑。
この頃はまだ「教員に転職する」というのは夢にも思っていませんでした。大学時代に教員免許は取っていましたが、もう一生ならないだろう、という思いが心の大半を占めていましたし。それが、いったいどうして教員にジョブチェンジすることとなったのか?続きは、後日のアップにてまとめます。
一気に書くには内容が濃すぎるので、連載企画にします。第2弾に続く!笑。